2016.9.15(木) (第21回)美作の史跡を歩く会 津山城跡細見その1
曇り 1/12人 2時間 9:00から11:00
秋が深まって、お城山(鶴山公園)の秋を訪ねる会になりました。
今回の美作の史跡を歩く会は、津山城を細見する会です。
天守台から備中櫓 |
講師陣はいつものとおり、津山市文化財保存の重鎮のお二人、M氏とY氏。
早速、郷土博物館の津山城模型(この模型2千数百万円もした精巧なもの。お家1軒分です(@_@)!!)を見ながら予備知識を入力します。
1603年から森忠正が12年をかけて築城し、明治4年廃城になるまで森家4代、松平家9代続いた城。他城の大手門に当たる冠木門は、武家諸法度による築城禁止令でやむなく横木を渡した冠木門になったことなど、ジオラマを見ながら聞いた。落成祝いに細川家から送られた梵鐘の説明なども聞く。
築城4百年で運んだ石 |
冠木門へ |
番所屋根の跡 |
そして、郷土博物館から石段を上がって、実際の冠木門へ移動。ここに入場券売り場、65歳以上は無料で入場できるのです。(私は数えで65歳)
門を入ると上に鶴山館という旧藩校の建物が移設された石積みがある。その石垣に番所の屋根の形が彫り込まれ、築城当時番所の建物があった所らしい。
表中門由来 クリックすると拡大します |
全国最大規模の表中門跡 |
四足門由来 (中山神社神門) |
石段を登り本丸下の表中門前まで来た。現在は各種催し物を開く広い階段だが、両側に石積みがあり当時の大きさを偲ばせている。江戸城や大阪城に匹敵する門構えだったそうだ。
二ノ丸へ入ると四足門跡が迎えてくれる、この門は現存していて、一宮の中山神社神門として移築されているらしい。
廃城時に天守や櫓は一ち早く取り壊され、吉井川を下り塩田の薪になったそうだ。
今になってみれば、惜しいことだが、当時はそれがベストな選択だったのだろう。
ここにきて、新たに天守閣を復元という話もあるが、自治体の規模から、なかなか困難なことだと思える。
10万市民がこぞって復元に努力すれば成就するかもしれないが?これもなかなか難しいことだ。今は立派な石垣が残っている。これを大いに活用しよう。津山城の石垣は全国的にも誇れる石垣なのだから。
切手門跡の古い階段 段差の間はスロープになっていた |
ヒガンバナ 曼珠沙華 |
表鉄門跡 |
石垣になった五輪塔 |
2ノ丸を通り切っ手門跡を過ぎる。ここでは古い階段が見られ、1段が1間幅で60㎝くらい上がる。今では想像できない階段で貴重と思える。
本丸に入る表鉄(くろがね)門は焼失したようだが、焼け残った石積みの焼跡が痛々しい。西側の石積みに五輪塔の石が使われていると教えてもらい、石垣造営の苦労が伺える。
この門の左右には城内で最大の石が使われている。本丸御殿の入り口がこの門の西側からアプローチするようになっていて、2層の門の上が本丸御殿の玄関で、城の防御になっていたらしい。
長局から備中櫓 |
本丸由来 |
本丸西側の展望 |
西に進んで、津山城の沢山の櫓の中で唯一復元された備中櫓へ向かいます。途中の長局跡藤棚の柱は□い柱と○い柱がある。□い柱は当時の柱の位置を復元したのだそうだ。
備中櫓は平成16年津山城保存整備事業で復元された櫓で、内部が公開されている。
各部屋の格式と、石垣天端の形状(四隅が直角でない)に合わせた間取りなど、文化財復元の苦労を講師から聞けた。
本丸から天守台へ |
天守台 |
天守台から中心街 |
天守台から東方 |
キューピットの石 |
櫓を出て、天守台へ登り、殿様気分で津山の町を見下ろしてみた。整備が進んで、展望台としても魅力的になっている。
粟積櫓へ |
石積み集団のロゴマーク 鶴山には四十数種類のマークがあるそうです |
粟積櫓から北方 |
同神楽尾 |
同東方 |
鶴山球技場は駐車場に生まれ変わった |
粟積櫓由来 |
本丸最後に北側(搦手)の粟積櫓跡へ登ってみる。南側の櫓の石積みは、本丸にある石垣では日本一の高さだそうだ。粟積櫓と大戸櫓は積み石産地の地名が使われているのだそうだ。
裏鉄門由来 |
崩れた石住の基礎 上の石は持ち去られたらしい |
彼岸花 |
ボタンヅル |
ヤブラン |
下る途中で、今も続く発掘現場を見たり、お城の排水路の話や唯一の岩盤の露出場所を教えてもらったりしながら、二ノ丸を回ってもとへ帰った。
ちょうど彼岸花が咲き始め皆さんの姿と一緒に撮影。ヤブランとボタンヅルも確認し、鶴山公園の素晴らしさを再確認した次第です。お世話くださった皆様、有難うございました。
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今日も最後までご覧いただきありがとう山(^^♪
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